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Channel: 平山トオル オフィシャルブログ「通る 徹る 透る THROUGH PASS CLEAR」
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はじめましての方へ

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はじめまして。
平山透といいます。

私は現在、ボーカルトレーナー、ボイストレーナー、舞台俳優、歌手、作詞作曲をしています。


そんな俺がそもそもどうして音楽の道を目指すことになったのか、
どうしてこの仕事をするようになったのか。

昔の俺を振り返りながら、みなさんに紹介していこうと思います。




俺は、今よりまして昔は目立ちたがり屋で、2歳か3歳ぐらいから、高いところを見つけるとそこにのぼって、歌を熱唱していたらしい。


幼稚園の頃に、そんなことをしていたことは覚えているんだけど、そんな小さい頃からやっていたということは覚えておらず、後から親に聞いて知ったんだけど。

その時、父親は「こいつは普通じゃない」と思ったとか(笑)


俺が生まれる前からママさんコーラスをやっていた母は、俺がお腹の中にいるときもコーラスに通って、生まれてからもいつも一緒に連れて行ってたらしいんだ。

俺は赤ちゃんの時から泣かずにじっと歌を聴いていて、物心ついてからも、違う曲の楽譜を持たされて、楽譜を見ながら、歌う真似をしたりしてじっと歌を聴いていたらしい。


そんな俺は、幼稚園に通っていたある日、友達がピアノを習っているということを聞き出して、「ピアノを習いたい!」と言い出して、昔はすっごくしつこかったから、母親が「考えとくね」と流しても、毎日のように「習いたい!」と言っていたんだ。それは俺も今でもなんとなく覚えてる(笑)
そんなに言うならと母親が習わせ始めたのが、俺の音楽人生の始まりだった。実はその頃習字も習い始めて、幼稚園性の頃から贅沢にも習い事ばかりさせてもらっていたな。

ピアノを習い始めたのはいいものの、指を切断する大怪我をしたことも関係したりして、なかなかピアノにはやる気が起きなくて、全然練習しなかった。


それでも自分はとても自信満々人間で、目立ちたがり屋&自信満々人間という何とも憎たらしい性格から、周りからは結構馬鹿にされたり、のけものにされたりもした。
極めつけは泣き虫&短気だったから、もう立ちが悪かったな

その時は自分の問題とも気づかず、友達をとっても嫌いになっていたことを覚えている。

そして弟は真逆で人気者という何ともアニメに出てきそうな兄弟だった。(俺は5人男兄弟の三男。)

今思うと、友達は最初は別に馬鹿にしたわけでも、のけものにしたかったわけでもなくて、ただ注意したり、遊んでたつもりだったのかもしれない。だけど、人一倍プライドの戦い俺はそう言った言葉に耐えられなくて、すぐ泣いたり、怒ったりしていたんだろう。だから余計にいじめられていたんだと思う。 

でも、その時、「俺が正しいんだ!」という我が強い性格があったからこそ、今の性格に結びつく経験をたくさんしてきたのかもしれない。

幼稚園ではお遊戯会で、お芝居の目立つ役に自分から立候補し演じて、小学校2年生では、福岡で行われたユニバーシアード福岡大会のイベントに、ダンスで参加。
そんな経験が、舞台に立つことの心地よさを決定づけていったと思う。

兄に憧れて、小学校3年生からは、少年ソフトボールを習い始めたんだけど、
運動音痴だった俺は、運動神経抜群の弟と比べられて、いっつもへこむ毎日(笑)

一方、ピアノは相変わらずあんまり練習しない。

だけど、毎日歌うことが大好きで、学校でも家でも誰にでも聞こえる大声で授業中以外はほとんど歌っていた。

そんな中、小学校5年生のころ学習発表会でミュージカルをやろうという話が先生から持ち込まれてね。
昔から歌と芝居、そして目立つことが好きだった俺は、すぐに男の主人公に立候補したよ。
ほかにやりたい人がいなかったから、俺はすぐにその役をもらえてね、その本番を迎えた時、久々に、幼稚園の頃に感じた舞台への快感を思い出したんだ。

6年生も学習発表会はミュージカル。もちろん俺はまた主人公に立候補。
でも、今度は友達も立候補してきたから、シーンごとに人を変えることになり、どこを受け持つかオーディションで決めることになった。
だけど、俺は最初のオーディションのセリフを読む様子から、先生に推薦をもらい、ソロのある場面をもらえた。その時の先生の言葉が「平山くんはみんなよりも明らかに違うから、平山くんはもう決定ね。ソロのある場面をやってもらうよ。あと残りの人でオーディションしましょう。」
今思えば、その先生の言葉が、ほかの友達にはとても嫌に聞こえたと思うし、公平性には欠けるけど、その言葉が俺にとってかなりの自信になったことは間違いなかったと思う。
実際に、その役をもらいソロを歌って、一躍学校の有名人になったことは確かだった。その時友達が付けたあだ名が「歌マニア」(笑)
「お前は歌ってばかりで、しかも歌が上手いから、今日から歌マニア!」その一言で付いたあだ名だったんだよ。

 それからは「平山=歌」というイメージが友達には広がっていた。
 俺はそれまでいじめられてばっかりだと、学校が嫌になることも続いていたから、そのみんなからの言葉がものすごく嬉しかったのを覚えている。

この頃から少しずつ、ミュージカル俳優になりたいという気持ちを持ち始めていた。

劇団四季の公演もよく見に行くようになって、どんどんミュージカルの虜になっていく。

でも、親から俳優のオーディションを受けたいというたびに反対されていたもんだから、ミュージカルは仕事にできないんだとその時は思っていた。


中学校では演劇部がなく、吹奏楽に入部し、演劇や歌にはなかなか縁がなく、歌うのは学校の合唱コンクールだけ。
俺は合唱コンクールでは伴奏を担当したことも度々あって、3年生になる頃には平山は歌う指揮者か、伴奏者と先生からも友達からも決められていた。

中学生の頃は、真面目で友達に勉強を教えることも好きで、いわゆるヤンキーと言われ、教室になかなかいない友達にも好んで勉強を教えていた。
中学2年生のある日、その友達が「透が同じ班なら教室に行く。違う班なら俺は行かん!」と叫んだ。俺はその言葉でものすごく自分の存在を特別に認められた気がし、生きがいを感じた。その時から、「俺は自分を犠牲にしてでも人のために生きたい。」と考えるようになっていた。

音楽にはまっていた俺は、高校受験の頃、父親に「音楽をやりたい!」と投げかける。
その時の父親の言葉は「音楽なんて仕事にできないんだから、進学校にいけ!」
その頃は父親とぶつかることも多くて、酔っ払って帰ってくるたびに喧嘩。
挙げ句の果てに、俺が居間からいなくなるとすぐに母親に
「透にかせいするな!あいつにかせいする必要ない!あいつの話を聞くな!あいつは親に迷惑しかかけん金食い虫なんやから、何もしてやらんでいい!」
と言っているのを聞いてしまって、俺はものすごく精神的にまいってしまっていた。
「俺はいないほうがいいのかな。」そんなことを考えるようにもなった。
部活に命をかけ、部長を務めて、毎日自分の時間を部活のために割いていた俺は、父親に
「人のためじゃなくて自分のために生きろ、家族に迷惑かけてまで人のためにやるんじゃない!」
と怒られ、
「俺は自分が死んでも人のために生きたいんだ!」
と泣き崩れて、全身痙攣になり救急車に運ばれた日もあった。
父親は野球好きで、野球をずっと頑張ってエースピッチャーをやったりしていた弟が大好きで、弟の面倒ばかり見ていた。一方野球をやらずに、父親が最も興味のない音楽を続けていた俺は、父親に理解されるはずがなく、ピアノの練習をしていてもいつも「うるさい!」と言われるだけだったんだよ。今だからこそわかるけど、父親はその時理解したいけど理解できないジレンマをうまく言葉にできず、そうやって俺を非難することでぶつけていたんだと思う。
それでも母親はずっと俺を応援し続けてくれていた。
「あなたはお母さんの子だし、お母さんによく似てる。あなたは音楽の才能があるのよ。あなたがやりたいようにやりなさい。でもお父さんの言うことも分かるから、難しいけどね。」

俺は、極限の壁にぶつかる。小学校中学校と、成績学年1位だった俺は、見栄を張って、受験地区トップ校特別クラスの推薦を受けて入学する。
だけど、最初のテストで特別クラスが40人だから40位以内に入ると思っていたのに、なんと400人中300位あたりに入ってしまったんだ。
プライドを崩されて、大ショックを受けた俺はそれから一切の勉強へのやる気をなくして、部活以外は高校へ行く意味すら感じていなかった。

宿題は毎日答えを丸写し、授業は毎日居眠り、時々先輩とカラオケに行って遊ぶ。それでも勉強ができないのを他の人は塾に行っているからとかいうせいにして、親には進研ゼミと塾を習わせてもらってね、それでも勉強の拒否反応から、塾に行かない日が続いた。
それこそ本当の金食い虫化していたよ。

それでも昔からくそ真面目だったから、どうにかして勉強しなきゃという気持ちはあったんだ。だから、毎日机に向かってはいたんだけど、体がついてこないという感じだったかな。
唯一数学だけが、時々学年2位とかを取っていた。赤点の方が多かったけどね(笑)

そんな勉強のあきらめから、俺は勝手に「もう俺には音楽しかない!」と決め込んで、高校2年生の時に父親に「音大に行きたいんだけど…」と相談した。もう反対をされるのは分かっていながらも、やっぱり反対された俺は、ものすごくふてくされて、父親が大嫌いになっていたね。
さらに追い討ちをかけるかのように3年生の時には「ちゃんと勉強せんか!浪人は絶対させんぞ!落ちたら働け!私立にも行かせんからな!」と俺を怒鳴り散らしてた。
実は、高3になるまで父親は俺が毎日机に向かう姿を見て、勉強をしっかりできているもんだと思い込んでいたんだ。しかし、高3の三者面談で俺の成績が悪いことを初めて知った父親は、そこで勘違いをした。俺は勉強をサボって勉強ができていないと思い込んでいた。でも、実際、俺は勉強をしたくても勉強がもう分からなくなっていた。頭が拒否反応を起こして、全く頭に入らない状態だった。精神的にちょっとおかしくなっていたわけだ。
 父親が俺を怒鳴り散らす毎日が続いて、ついに俺は頭が崩壊。最初は反抗して、「やってるよ!頑張ってんだよ!」と言っていたけれど、「サボってんじゃなくて、頑張ってるけどもうどうしていいかわからないんだよ。できないんだよ。」と言い残して、混乱状態。床に寝っころがり暴れまわった。
実はその数日前から様子がおかしくて、夜寝ようとしていたら急に脈が早くなり、寝れなかったり、頭から汗よりもベタベタした分泌物がでたりと、体に異変が。
それを母親に訴えていたんだけど、母親は「大丈夫、大丈夫」といって聞き耳を立ててくれず、唯一兄だけがその様子を気にして「透がおかしいって言ってるんだから、そんな言い方せんで気にしてやれよ」と言ってくれてた。
その中の混乱状態だった。
 その時はすぐに兄が降りてきて、「透大丈夫か、透!どうした?ほら、どうした。大丈夫やぞ。」と優しく声をかけてくれた。気が動転してどうしていいかわからなくなった父親は、そのとき立ちすくんでた。すぐに病院に連れて行くように指示した兄に従って、両親は俺を夜間診療に連れて行った。結局その時原因が分からず、病院の先生が後日精神科に行くことを推薦。
 その時はじめて受験がストレスで「自律神経失調症」、つまり軽い鬱状態になっていたんだ。
 やっと原因がわかった父親は素直に俺に「お父さんが悪かった。ごめんな。本当はお前に頑張れって言うつもりが、ああいう言い方になってしまった。ごめん。」と誤ってくれた。
 本当は「ごめんなさい。」と言いたかった。
でも、その時は「うーん、大丈夫。」としか言えなかった。
 そこでやっと薬を処方され、精神が落ち着き、勉強もできるようになって、なんとか受験期間を乗り越え、父親との約束通り国立大学に入学。最後まで音楽にこだわった俺は、親を納得させるために、教育学部の音楽科を選んでいた。声楽も高校3年生から習い始めてたんだ。

 俺はその時思ってたね。やっと高校生活を抜け出せた。しかも、精神的にも治って、大好きな音楽の世界!幸せな生活が続くぞーってね。でもそんな簡単な世界じゃなかった。
 というよりも俺が世の中を甘く見ていた。自信に満ち溢れていた俺は、何をしなくても歌で有名になれると勘違いをしてたんだ。ましてや、習うことがミュージカルじゃなくて、わけもわからないクラシックだったから、その時はもう俺は音楽というものがなんなのかよくわからなくなってた。だから、自分が本当は何をやりたいのか見失っていたんだな。為すがままクラシックを勉強していたんだ。
 その大学時代、歌で入学して、歌が当然うまいと思い込んでいた俺に、大学の声楽の先生は「お前は歌が下手くそだ!」と断言してきた。大ショックを受けた俺は「じゃあなんで受験に合格したんだよ!ふざけんな!」とふてくされ、その先生のレッスンのときもピアノのレッスンの時もほとんど練習をしなくなってしまった。まるで高校生の時みたいにね。それを見抜いた先生は俺のレッスンの時は「練習しろ!」しか言わない毎日。ますます俺は先生のことが大嫌いになっていたよ。
 唯一尊敬していたピアノの先生のおかげで、ピアノはどんどん上達し、ピアノの先生の言う「お前は声がよく通る。」、友達が言う「とおるちゃんは歌が上手いね!」という言葉で、俺は声楽の先生を敵に回し、自分は歌が上手いと自信を持ち始める。声楽の先生の思いを組み込まずに、俺はほかの先生にも習いに行き、もう一度声楽の勉強を一から学び始めることにしたんだ。
少しずつ俺のことを理解し始めた父親は、弟が野球で私立に行きたいと言い、入学させたことをきっかけに、「弟には私立に行かせるのに、お前には私立に絶対いかせんって言って悪かった。もう一回音大挑戦したかったらしていいけんな」と連絡をしてきた。

 卒業の関係で受験が難しい状況に分かっていながら、俺は受験に挑戦することに決める。受験勉強を始めることが遅くなってしまったけれど、その時は全力で努力した。とにかく、歌をうまくなるために必死にもがいたんだ。
 そして、なんと東京芸大の一次試験を見事合格、私立音楽大学の受験も合格する。しかし、そこからがやはり俺の悪い癖で、人生を甘く見ていた。東京芸大の一次試験を合格して、すっかり調子に乗った俺は、2次試験2日前に行われたその時の大学の卒業演奏会の打ち上げに参加をし、夜中まで騒いでしまう。その次の日勝手に終わった感に浸り、夕方まで爆睡。
 せっかく生活習慣をただし、体の調子を整えていたのに一気に体調を崩してしまったんだよ。
 2次試験当日は体調が絶不調。頭痛の上に声もあまり出ず、筋肉は力が入らない状態。電車は止まるはの一大事。完全に調子を崩した俺は、2次試験で急に不安になり、それまで問題なかったはずなのに、本番で音を外しまくってしまった。当然、2次試験は不合格。
 その時、プロ意識が如何に足りなかったかを痛感させられた。師匠には「落ちるはずはなかった。来年は絶対受かるから受けなさい。」と言われ、俺を応援してくれていた指揮者の先生は「お前の声を聞いて、俺は絶対受かると思っていたよ。なのにどうして。」と言ってくれて。。本当はそういう周りの言葉から来年も挑戦したかったんだけど、金銭的問題から再度受験を断念。自分でレッスンに通い、歌を極めることを決意したんだよ。
 一方、大嫌いになっていた大学の声楽の先生からは、「お前はプロは無理!教員になりなさい。」と追い討ちをかけられていた。
その時は、ますます大嫌いになっていったが、実は先生は俺のことを気にかけ、「音楽の世界は食っていくのが難しいんだ。どんなにうまくてもお金にならない。お前には家族をもって幸せになって欲しい。」という思いを込めて、そういったきつい言葉を俺にかけてくれていたことを俺はあとから知ったんだ。
 それで、自分でレッスンを通い続けること決意した俺は、金銭面を補うために、小学校の非常勤講師に勤務することになった。勤務し始めて数ヶ月経ったとき、子どもに音楽を教えることの魅力を感じ始め、校長先生や同僚の先生など周りにも勧められるまま教員採用試験を受けて、みごと合格する。
その頃同時に、「俺はミュージカルをしたかったんだ!」とやっと自分を取り戻し始めた俺は、友達にその思いを語り訪ねまくって、ミュージカルのつながりを持っている人を探しまくった。
たまたま縁があり、公演のオーディションの話をもらい、見事合格。ミュージカルに出演することになって、その年だけで2つの舞台に立ったんだ。
 そのミュージカルの話が来る前に、教員の採用試験を受けてしまった俺は、4月からの正採用勤務開始を前に、徐々にミュージカルの魅力を思い出し始め、迷い始める。先生をやりたいのか、ミュージカルをやりたいのか、クラシックの歌をやりたいのか。。
 結果、完全にミュージカルの魅力を思い出した私は、迷いつつも経済的安定のために一度先生になり、3年後に退職してまたミュージカルの世界に戻ると決意し、友達に断言した。
 
 そうして始まった教員生活は実はとても濃い時間だった。今思えばその頃がなければ今はなかっただろうな。「人を教えるとはどういうことか。」ということを学んだ時間だったな。レッスンに通う毎日が俺の技術を成長させたことは間違いなかったけれども、それ以上に人に教えることで、ますます俺の声楽の技術は向上したと思う。さらに言えば、歌を楽しむとはどういうことかをたくさん子どもたちから教えてもらった。

 歌が上手い子、上手くない子、音楽が好きな子、嫌いな子、いろんな子どもたちがいる中で、子どもたちに音楽の魅力を伝えることに必死になった。
 徐々に、音楽というのはいろんな芸術とものすごく密室な関係にあること。芸術というものが社会にいかに大切かということをものすごく実感し、体験していくことになる。

 1年目で特別音楽クラブの立て直しをはかり、翌年には20人しかいなかった弱小器楽クラブを50人の大クラブに成長させることに成功した。確実に自分の中で子どもたちに音楽の魅力を伝えていく方法を掴んでいっていた。同時に3年目には合唱団を設立。設立当初から50人弱の子どもたちが入部した。楽器を教えることと合唱を教えることはアプローチの仕方からいろいろなことが全くちがい、そういったこともその経験の中から学んでいったんだよ。楽器の魅力と歌の魅力。同じところと違うところ。その2つの人が感じるところの違い。楽しみながら上手していく教え方。いろんなことを学んだな。

 それまで音楽専科だったが、退職する前、最後の年には担任をやらせてもらい、子ども一人ひとりをしっかり見つめることが少しずつできるようになっていった。子どもを知ることは、人間を知ることだということもその時初めて理解した。子どもと大人は違うと言うけども、大人の隠している部分が子どもの部分。子どもは人間の素直な部分を映し出していると感じている。
 そして、一人ひとりをしっかり見つめるとは、どういうことなのかということでも多くを学んだ。そして、子どもたちに俺自身もたくさん成長させてもらったんだよ。

 歌い手としても、指導者としても成長させられた俺は、自信をもって、退職すること決意。子どもたちと離れること、もう教員でなくなることはものすごく寂しかったけれども、自分の思いを社会に広げるためには、全く悔いはなかった。

というのは、実は前にも述べたように3年で仕事を辞めることをある程度目標に掲げていたので、3年目まで本当に自分がプロの道でいいのか、それともずっと教師をしたいのか、試すためにも本気で教員に打ち込もうとそれまで一生懸命働いたんだ。
しかし、教員の魅力を感じながらも、やっぱりミュージカルをやめる夢を諦められなくて、自分で願掛けしてみることにした。
それは、今一緒に働いているボーカル講師の辻寛子に自分の歌が仕事としてできるレベルにあるのかを評価してもらうことだった。俺は、「歌を聴いていいと思ったら、デュエットライブをしてほしい」と頼んだ。そのことをきっかけに今の仕事に結びついていることは、紛れもないこれがきっかけだったんだよ。
もう一つ、最終的にやめるきっかけがあった。それは、夏に全国大会常連校の中学校吹奏楽部から次年度からの顧問へのオファーがあったことだ。
 俺はそれをきっかけに土日も注ぎ込んで教師一筋になるか、教員をやめて音楽一筋で行くかきめることにしたんだ。もちろん顧問の仕事もしたかったんだよ。でも迷った。けど、この迷いが答えだったんだね。迷ったということは、それをやりたいという気持ちが100ではないということで、ということは俺がやりたいことはやっぱり自分が音楽一筋で生きていくことなんだなと。
やめることは辛かったけども、俺はぞれまで悔いのないように全力で仕事につぎ込んできたから、やめることに後悔はなかった。むしろ後悔しないように残りの教師生活も一生懸命自分の思いを貫き通して子どもたちのために働いたし、そこには本当に誠実だったから。
そうして、俺は教師の仕事をやめることにしたんだ。
 
 実は、大学4年生の頃から、歌で舞台に立つことも多く、一般のコーラスの指導にもいくようになっていた。そんな経験から音楽(歌)を教えることに魅力を感じてきた俺は、音楽はすごく素晴らしいもので、誰にでも楽しむ権利のあるものなんだということを伝えようと、今指導者として仕事をしてる。

 指導者は学び続けなければ指導者ではない、他人を教えることで自分も学ぶ。他人に喜んでもらうことで自分も喜ぶ。それが俺のモットー。

 だから、俺は今でも自分で歌うこともするし、お芝居をすることもある。お芝居はもともと好きだから続けてるということもあるんだけども、歌がお芝居であるとも思っているからなんだ。歌は楽器と違って言葉がある。言葉がある以上、その言葉の意味を相手に伝えなきゃいけない。ということは言葉だけ抜き出せばこれはお芝居なんだよね。お芝居と楽器が一緒になって歌ができる。そう考えると難しそうに感じるかもしれないけど、そうではなくてものすごく贅沢な楽しい世界なんだよなあ。俺はそういった歌の魅力をみんなにしってほしい。

そして、いつか父親に音楽の魅力を知ってもらいたい。
俺がやってきたことが間違ってなかったことを。
お父さんとお母さんのおかげで立派になれたことを。




とても長い文章を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
こんな人生を送ってきた僕ですが、まだまだここに書ききれなかった波乱万丈な人生があります。
これを読んで少しでも平山透に興味を持ってくださったら、これからもブログやスタジオでお会いできたらと思います。

これからも宜しくお願いします。


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